投稿

5月, 2026の投稿を表示しています

告諭を味わう⑧ 我と大地有情と同時に成道す

  「我と大地有情と同時に成道す」 これは、お釈迦様が暁の明星を見て覚りを得た時の言葉です。 道元禅師も瑩山禅師も著作に引用しており、短い一文ですが、非常に重要な意味を持っています。 「私とこの大地の全ての生命が、同時に道を明らかにした。」 「有情」とは、生命あるものという意味ですが、道元禅師特有の解釈方法で理解すれば、 有情があれば無情もあるという論理になりますので、ここには、生物無生物問わず全ての存在が含まれています。 また、同じく「同時」にも、時間的制限がありません。今始初めて、いつから、など ではなく、最初からそうだったということです。 道というのは真理、あらゆるものは人間の思いを超えて、縁によって成り立っていることです。  この世界は、 成り立ち自体が人間の思惑を超えたものです。 思惑とは、思いの枠とも言えます。人は、それぞれが人生で培ってきた経験から、物ごとに自分だけが理解する特徴と価値を付けて、自他を区別するための枠を心の中に作ります。 ですが、縁は、そうした枠を超えたところで働きます。 縁によってあらゆる物の姿、形、色、大きさ、匂いなどの特徴が作られます。特徴の積み重ねで、私たちが私と認識している自分や、他の存在ができます。 特徴の組み合わせの種類は無限です。やり直しもききません。コピ-もできません。人の思い通りにはいきません。ですから、全ての存在は、唯一の物です。 唯一ということは、絶対ということです。 絶対ということは、比較ができないということです。 対立のしようがないことです。 誰もが、あらゆる存在が、対立や比較を超えた絶対のいのち(仏のいのち)を生きています。   「我と大地有情と同時に成道す」 「私を含めたこの天地いっぱいに満ちている全ての存在は、最初から、かけがえのない仏のいのちを生きていたのだ。」 というお釈迦様の気付きです。 一方、気づいたということは、今まで気づいていなかったことに気付いたということです。 ですから、お釈迦様は同時に、 「私以外は、みんな最初から知っていたのだ。私だけが、気付いなかったのだ。」 と気付いたのです。 「人に生きづらさを感じさせ、悩ませ苦しませる自他の対立は、自分だけが抱えていたものだった。最初から苦しむ理由はなかったのだ。」とも言えます。 これは、これまでの人生に対す...

告諭を味わう⑦ 道元禅師の修行生活と世界(2)

曹洞宗は、お釈迦様と、そのみ教えを日本に伝えられた道元禅師、瑩山禅師を一仏両祖と仰ぎ、歴代のお祖師さまが脈々と伝えらてきた坐禅を中心とした正しい信仰にもとづく生き方を、日々の生活に実現していくことを目指します 。 その生き方とは、あらゆる存在が「縁」によって成り立っていることに心の底から気づき、そこで自ずと生まれる感謝の心を、行いと、言葉と、思いにして、すべての存在に回らし向けていくことに他なりません。(以上、告諭)   私たちの住む世界は、私たちの誕生とともに生まれ、死ととも消えていきます。 代わりに生まれてくれる人も、生きてくれる人も、死んでくれる人もいません。 ですから、限られた時間を無駄にせず生きるためには、自身が生きている間に、生きることを努める他ありません。 与えられたい、認められたい、愛されたい、許されたい、尊重されたい。そのような渇望に、人は苦しみます。 求めても満たされないこの世界に、人は生きる価値を見失います。 今の人生よりマシな人生があったはずだ。 どうして誰も自分を大切にしてくれないんだ。 誰か代わりに生きてくれないか。 あの人ばかりずるい そんな思いを抱いたことがある人は、多いのではないでしょうか。 しかし、どうあがいても誰かと交換できないのが生命です。人生です。 この世界は、自身以外誰も代わりに作ってくれませんので、ここ以外に生きるべき世界はありません。 この中には、私の全存在があります。美しい思い出も、辛い経験も、愛する人も、思い出したくもない人も、過去も現在も未来もあります。 捨てようにも捨てられないものですし、逆に私が捨てられることもありません。 私たちは、誰より何よりも、自分自身が愛おしく大切なものです。ですから、自らの世界そのものである全てのものを愛し大切にすることも、道理に則ったものです。 この世界と私は、決して分けることはできませんから、この世界のことを「いのち」とも言えるでしょう。 世界が「いのち」そのものですから、その中で生きる自身と他者の「いのち」に区別はありません。 また、他者も同じように自分だけの世界を持ち、世界とともに生きています。 であれば、誰もまた、それぞれの世界を「いのち」として生きていることになります。 それを害する権利は誰にもありません。 自らの「いのち」を害されることを望む者はいません。 私た...

告諭を味わう⑥ 道元禅師の修行生活と世界(1)

曹洞宗は、お釈迦様と、そのみ教えを日本に伝えられた道元禅師、瑩山禅師を一仏両祖と仰ぎ、歴代のお祖師さまが脈々と伝えらてきた坐禅を中心とした正しい信仰にもとづく生き方を、日々の生活に実現していくことを目指します 。 その生き方とは、あらゆる存在が「縁」によって成り立っていることに心の底から気づき、そこで自ずと生まれる感謝の心を、行いと、言葉と、思いにして、すべての存在に回らし向けていくことに他なりません。(以上、告諭) 以下、道元禅師の著書「正法眼蔵 行持」「弁道話」から引用し、意訳してみます。 行持によりて依正身心あり、行持によりて四大五蘊あり。行持これ世人の愛処にあらざれども、諸人の実帰なるべし。過去現在未来の諸仏の行持によりて過去現在未来の諸仏は現成するなり。その行持の功徳、ときにかくれず。かるがゆゑに発心修行す。(正法眼蔵 行持) 修行生活すればこそ、私という存在も、私の住む世界も存在するのです。修行生活するためにこそ、私の精神も肉体も存在するのです。修行生活とは、私たちにとって、退屈かもしれない生活ですが、よく考えれば、この他に生き方のない、最後の落ち着きどころです。過去現在未来の自覚を願う人たちの修行生活により、過去現在未来の自覚を願う人たちの人生が完結します。その修行生活の働き方は、明らかでないように見えますが、必ず現れて来ます。そのために、私たちは気がついて修行生活を大切にしようと志を起こします。 もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端座するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。 (弁道話) もし人が、一時のことであっても、思いを超えたところで生かされている事実を受け止め、それを行いと言葉と思いで表現し、自分の執着を手放して坐禅し、その功徳を日常生活にめぐらし、自己が生きるしか無い自己の生命に落ち着くことができれば、この世界は、そのまま対立も比較もない世界となり、どこへ行ってもそこがやすらぎの場所となります。 私の一日は、朝の坐禅とお勤めから始まります。 朝の坐禅は、暁天坐禅と言いまして、修行道場では毎朝必ず行われており、この坐禅が一日で最初の修行です。 お勤めでは、毎朝決まったお経を読み、世界の平和と人々の安らかな生活を祈っています。 毎日続けてきた習慣ですので、目覚まし時計をかけなくても決まった時間に...

告諭を味わう⑤ 「空」という世界観(2) 世界を創造するということ

イメージ
 ここに樫の椅子があるとします。昔からこの家に受け継がれてきた椅子です。 子どもが座り、母が座り、祖母が座り、家族が代々座り受け継いできた椅子。ある人は、家族が紡いできた物語として椅子を見るでしょう。 ある人は、椅子の素材となった木を見るでしょう。一本の樫の木が種から芽吹き、苗木から大木となり、切り倒され、木材となり、部品となり、椅子へと姿を変える、遥かな旅路を椅子に見るでしょう。 ある人は、椅子を作った職人の姿を見るでしょう。木材を吟味し、採寸し、切断し、組み立て、塗料を塗り、家具店へと送り出す仕事として椅子を見るでしょう。 椅子には実体がありませんので、見る人によって姿を変えます。この世界も同じです。この世界に生きる人それぞれに合わせて、姿を変えます。意味を変えます。価値を変えます。歴史すら変えます。 人は、一人ひとりが自分だけの世界を創ります。世界を創るために必要な道具は、自分自身そのものです。 人生の中で積み上げてきた経験、記憶、考え方、性格、遺伝、身体、外界からの影響、様々な要素が複雑に関係しあって、人間の精神と肉体を作り、世界を認識し、その姿を創り上げます。 私たちは、外界の情報を目や耳などの感覚器官を通して脳にインプットします。誰でも人生経験を通じて学習された行い・言葉・思いのクセを持っています。そのクセをツールとして脳で情報を処理し、情報を総合して、世界の映像としてアウトプットします。この時、同じ情報であっても、個人によって感覚器官のはたらき方も、クセも違いますので、アウトプットされた景色は人それぞれです。世界は、個人個人で異なる姿を現出します。 この世界は、個人個人が自分専用に創り上げたものですから、この世界で生きるほかありません。誰でも自分自身の世界で生きるほかないのです。 ですが、必ずしも自分の世界が自分の生きたい世界というわけではありません。だからと言って、他者の世界の方が住みやすそうだと思っても、住み替えることはできません。ここに苦しみが生じます。 そこで大切なのは、この世界しか自分の住む世界はないという圧倒的事実に気付き、受け止めることです。そして、自分自身の行い・言葉・思いのクセに向き合い、克服し、コントロールし、より良い世界を創造していくことです。 さらに大切なのは、他者もまた、かけ...

告諭を味わう④ 「空」という世界観(1) 「空」「無自性」「縁起」

イメージ
  家を建てる時、一番気を使うのが基礎です。基礎がしっかりしていなければ、見た目が華麗であっても、地震や水によって家は歪み傾き、人は住めなくなります。逆に基礎をしっかり作っておけば、贅沢な建物でなくても、何十年も住み続けることが出来ます。同じように、世界観がしっかりしていなければ、人が羨むような生活を送っていても、足をしっかり地につけて生きることはできません。財産や名誉など、揺れ動く基礎では生き方も揺らぎ続けます。一生住む家を建てるなら、どのような地盤でも、地形でも、気候でも、しっかり家を支える基礎でなければなりません。 人間もまた、この世界で一生生きる以上、歪み傾かないためには、しっかりとした世界観を持つ必要があります。 宗教は、自分が生きるしかないこの世界で自分が生きるしかないこの生命の問題を扱います。生きるべき世界のあり様がはっきりしていなければ、そこでどのように生きたら良いのかが曖昧になります。 ですから、宗教は、それぞれ独自の確固とした世界観を持っています。 宗教に限らず科学でも、理論が通用する世界を成り立たせる物理法則が必要です。 仏教、特に大乗仏教の基本的世界観は、「空(くう)」と言います。 「空」とは、「無自性(むじしょう)」すなわち「あらゆる物は自性を持たない」という意味です。「自性」は物質固有の本質のことです。固有の本質とは、他からの影響を受けない永遠不変の実体のことです。 仏教では、この世界のあらゆる存在は、常に変化してとどまることがないと考えます。それは、永遠不変の実体が無いからです。 もし、永遠不変の実体があったとしたら、それ自体で存在が成り立ち、他の物質の影響を受けず、単独であり続けます。 宇宙とともに誕生するのはたった一つの実体です。 それは変化も分離も複製もありません。 星も地球も生命も誕生しません。永遠不変の実体が無いからこそ、ここに私たちが存在しているのです。 では、どのようにこの世界が成り立っているのかといいますと、「縁起(えんぎ)」によって成り立っていると仏教では考えます。「縁起」は「因縁生起」の略で、原因(因)や条件(縁)が複雑に絡み合い、関係を作り、相互に影響しあってこの世界は成り立っていると考えます。一文字で 「縁」とも現します。 この世界の全てのものは、お互い関係しあわなければ存...

告諭を味わう③ 世界は汚い?美しい?

イメージ
 人間は矛盾と不安に満ちた世界に生きています。 平和に心安らぐ一方で、混乱と争いのニュースに心痛め。富める時の安心感と、乏しい時の焦燥感、格差に社会が分かたれていく不安感。その中でどう生きていけばいいか答えが出ないもどかしさを抱えています。 一方で、日常に目を向ければ、仕事、人間関係、子育て、親との付き合い方など、その中に相対する感情を抱えています。 仕事に自分の居場所を獲得し、人と笑い合い、我が子を愛おしく思い、親の愛に感謝し、喜びを感じ、光輝く日々もあるでしょう しかし、定年退職などで仕事を辞めれば、自分が社会に必要とされているのか自問自答し、友との確執や別れも経験しますし、子は親を離れ、親との関係に悩み死別を経験し、儚い自らの命に向かい合い、曇天の空の下に生きる日々もあるでしょう。 この世界は美しく見える時もあれば、そうでない時もあります。 「私には、この世界が醜く汚れているようにしか見えません。」 お釈迦様の弟子の1人、舎利弗がお釈迦様に告白しました。 お釈迦様の側にいた螺髻梵王が答えました。 「物事に上下をつける世界観に生き、仏の価値観で生きていないから、あなたには世界が醜く汚れて見えるのです。舎利弗よ、この世界のあらゆる存在の価値は、比較を超えています。この比較を超えているということが、清く美しいということです。仏の世界観に生きれば、その目には、この世界は清く美しく映るのです。」と この会話を聞いたお釈迦様は、足の指で地面を押しました。すると、またたく間に、世界は光り輝く宝石で美しく飾られました。 (『維摩経』「仏国品」) ここで「仏の価値観」と訳しました言葉は、原文では「仏慧」です。 仏慧は仏の智慧、般若波羅蜜ともいいます。お釈迦様に悟りをもたらした智慧です。知識や分析力や頭の良さはありません。直感的なものです。ものごとの真実の姿を明らかに知る智慧です。 その智慧とは「空」を知ること。世界を「空」という世界観で見ることです。

告諭を味わう② キリスト教における安らぎと平和な世界について

イメージ
 まず、キリスト教における「安らぎと平和な世界」について考えてみたいと思います。 仏教者である私の意見ですので、キリスト教徒の方々から見れば拙い考えかもしれませんが、ご容赦下さい。 『新約聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注改定五刷(中央出版社 1984 年)より ✞ 主の祈り だから、あなたがたはこう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、み名が尊まれますように。み国が来ますように。み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように。きょうのかてをきょう与えてください。わたしたちの負い目をゆるしてください、同じようにわたしたちも、わたしたちに負い目のある者をゆるします。わたしたちを誘惑に陥らないように導き、わたしたちを悪から救ってください。』 もし、あなたがたが人のあやまちをゆるすのならば、あなたがたの天の父もあなたがたをゆるしてくださるであろう。しかし、あなたがたが人のあやまちをゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるしてくださらないであろう。(マタイ 6,9~15 ) ✞ パン種のたとえ話 神の国はパン種に似ている。女の人がそれをとって三サトン ( 約四十リットル ) の小麦粉の中に混ぜると、やがて全体が発酵する(マタイ 13,33 ) ✞ フランシスコ会聖書研究所注 イエズスの言う神の「み国」とは、ご自分によってこの地上に始められた「神の国」のことである。それは本質的にはキリストにおいてすでに始まった終末的な国であるが、同時に各時代の人々とともに発展していくものである。愛と正義と平和と真理によって成り立っている神の国が、憎しみと不正と戦争と虚偽によって乱れがちな人間の国に、パン種のように浸透していき、これを完成に導くように願う祈りである。 ✞摂理への信頼 まず、神の国とそのみ旨を行う生活を求めなさい。そうすれば、これらのもの(衣食)も皆、加えて、あなたがたに与えられるであろう。だから、あすのことを思い煩ってはならない。あすのことは、あす思い煩えばよい。その日の苦労はその日だけで十分である。 (マタイ 6,33 ) ✞ 言葉よりも行い わたしに向かって「主よ主よ」と言う者が皆、天の国に入るのではない。天におられるわたしの父のみ旨を行う者だけが入るのである。(マタイ 7,21 ) ✞ ...

告諭を味わう① 宗教の説く「心の安らぎと平和な世界」

イメージ
今、世界は多くの問題や課題を抱え、私たちは苦しみや悩みの多い社会を生きています。その中で人びとが宗教に求めるものは、心の安らぎと平和な世界です。 今年の告諭について、私なりに考えて見たいと思います。 全体で4段に分かれています。これを起承転結と見れば、起で問題提起して結で結論を表しています。 そう見た場合、「人々が宗教に求めるものは心の安らぎと平和な世界であり、それを実現するのは正しい信仰の生活である」というが告諭の大意ということになります。 過去から現在まで、数多くの争いがこの世界には起きてきました。その根底には、自分と他者を対立させる人間の心と欲があります。 人は、自分と他者、あるいは自分が属するグループと他のグループを異質なものとして対立させ、優劣を付けます。その上で、足りないものを手に入れようとする欲望のコントロールを忘れると、争いが生じます。 身近な例では、子ども同士のおもちゃの取り合いですが、スケールが大きくなると戦争となります。 対立の要素としては、食料、資源など物的なもの、民族、歴史認識そして宗教といった文化的なものがあります。 ここに宗教が入ることは、宗教者としては心が痛みますが、受け止めなければなりません。 しかしながら、本来宗教は、隣人を尊重する精神と、欲望の暴走を抑える教えを説いていきました。 そこで、宗教者として反省の意味を込めて、告諭を噛み締めながら、宗教の説く「心の安らぎと平和な世界」そして「信仰生活」について考えてみたいと思います。 ところで、人は自分と他人を分けるからこそ、自分自身を1人の人間として認識できますし、他者へ愛情を感じ、助け合うことができます。また、欲は、社会を発展させようとする原動力となりますし、人生をいきいきと生きようとするためには必要なものであることも、また事実です。 宗教は、人間が生まれてから死ぬまでの苦しみと救いを説きます。 自他を対立させ比較することで生じる苦しみと、欲望に振り回されれることで生じる苦しみ。 自他の関係を正しく認識することで生じる救いと、欲望の支配から免れることで得られる救い。 たった一度の限り有る人生を救いの中で生きるにはどうすればいいのか、それを日常の実生活を通して体現するのが宗教です。

曹洞宗 布教教化に関する告諭

イメージ
  毎年度、曹洞宗を代表する管長から、「布教教化に関する告諭」示されます。これは、曹洞宗の教えを信奉する私たちのみならず、広く社会に対して発信される、仏の道の歩み方を表したお言葉です。 布教教化に関する告諭 今、世界は多くの問題や課題を抱え、私たちは苦しみや悩みの多い社会を生きています。その中で人びとが宗教に求めるものは、心の安らぎと平和な世界です。 曹洞宗は、お釈迦さまと、そのみ教えを日本に伝え弘められた道元禅師、瑩山禅師を一仏両祖と仰ぎ、歴代のお祖師さまが脈々と伝えられてきた坐禅を中心とした正しい信仰にもとづく生き方を、日々の生活に実現していくことを目指しています。 その生き方とは、あらゆる存在が「縁」によって成り立っていることに心の底から気づき、そこで自ずと生まれる感謝の心を、行いと、言葉と、思いにして、すべての存在に回(めぐ)らし向けていくことに他なりません。 一杯のお茶が出されたならば、それを丁寧にいただく。而今 ( いま ) なすべきことは、心を込めてつとめる。毎日が、かけがえのない「縁」と「いのち」の営みであることを自覚し、世界中の人びとが誰一人取り残されることのないよう、ともに願い、祈り、まずは自分自身から正しい信仰の生活を営んでまいりましょう。 合掌 南無釈迦牟尼仏 南無高祖承陽大師道元禅師 南無太祖常済大師瑩山禅師 令和8(2026)年4月1日 曹洞宗管長 石附周行 https://www.sotozen-net.or.jp/kokuyu