告諭を味わう② キリスト教における安らぎと平和な世界について

 まず、キリスト教における「安らぎと平和な世界」について考えてみたいと思います。

仏教者である私の意見ですので、キリスト教徒の方々から見れば拙い考えかもしれませんが、ご容赦下さい。


『新約聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注改定五刷(中央出版社1984年)より

主の祈り

だから、あなたがたはこう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、み名が尊まれますように。み国が来ますように。み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように。きょうのかてをきょう与えてください。わたしたちの負い目をゆるしてください、同じようにわたしたちも、わたしたちに負い目のある者をゆるします。わたしたちを誘惑に陥らないように導き、わたしたちを悪から救ってください。』

もし、あなたがたが人のあやまちをゆるすのならば、あなたがたの天の父もあなたがたをゆるしてくださるであろう。しかし、あなたがたが人のあやまちをゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるしてくださらないであろう。(マタイ6,9~15

パン種のたとえ話

神の国はパン種に似ている。女の人がそれをとって三サトン(約四十リットル)の小麦粉の中に混ぜると、やがて全体が発酵する(マタイ13,33

フランシスコ会聖書研究所注

イエズスの言う神の「み国」とは、ご自分によってこの地上に始められた「神の国」のことである。それは本質的にはキリストにおいてすでに始まった終末的な国であるが、同時に各時代の人々とともに発展していくものである。愛と正義と平和と真理によって成り立っている神の国が、憎しみと不正と戦争と虚偽によって乱れがちな人間の国に、パン種のように浸透していき、これを完成に導くように願う祈りである。


✞摂理への信頼

まず、神の国とそのみ旨を行う生活を求めなさい。そうすれば、これらのもの(衣食)も皆、加えて、あなたがたに与えられるであろう。だから、あすのことを思い煩ってはならない。あすのことは、あす思い煩えばよい。その日の苦労はその日だけで十分である。(マタイ6,33


言葉よりも行い

わたしに向かって「主よ主よ」と言う者が皆、天の国に入るのではない。天におられるわたしの父のみ旨を行う者だけが入るのである。(マタイ7,21


神の国の到来

神の国は、目に見えるものとして来るのではない。また、人々が「見なさい、ここにある」とか「あそこにある」とか言えるものではない。神の国は、実にあなたがたの間にあるのだから。(ルカ17,21


最も重要なおきて

『思いをつくして、あなたの神である主を愛せよ』これがいちばん重要な、第一のおきてである。第二もこれに似ている。『隣人をあなた自身のように愛せよ』。すべての律法と預言者の教えはこの二つのおきてに基づいている。(マタイ22,37~40


復活祭202645日 教皇レオ14世によるメッセージ

イエスはわたしたちにいのちと平和をお与えになるために、死を通られました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのでない」(ヨハネ14,27)。イエスがわたしたちに与えてくださる平和は、単に武器を鎮めるだけの平和ではなく、わたしたち一人ひとりの心に触れ、心を変える平和です。

VATICAN NEWS https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2026-04/domenica-di-pasqua-urbi-et-orbi-20260405.html


関口興顯所感

キリスト教において、神の国とは、未来や遠いどこかに求めるものではなく、今生きているこの時代この場所で自らの中に実現するものです。それは、神のみ旨通りの祈りと日常生活を送ることで現れてきます。そのために大切なのは揺るぎない信仰とそれに基づく知足の生活、自他の罪を許す愛、見返りをもとめず施す大いなる愛です。その神のみ旨を行う時、神の国は実現します。そしてそこから自ずと現れる行いが周囲の人間を感化して行き、やがて世界に平安が訪れると言えるのではないでしょうか。






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