告諭を味わう⑥ 道元禅師の修行生活と世界(1)

曹洞宗は、お釈迦様と、そのみ教えを日本に伝えられた道元禅師、瑩山禅師を一仏両祖と仰ぎ、歴代のお祖師さまが脈々と伝えらてきた坐禅を中心とした正しい信仰にもとづく生き方を、日々の生活に実現していくことを目指します

その生き方とは、あらゆる存在が「縁」によって成り立っていることに心の底から気づき、そこで自ずと生まれる感謝の心を、行いと、言葉と、思いにして、すべての存在に回らし向けていくことに他なりません。(以上、告諭)


以下、道元禅師の著書「正法眼蔵 行持」「弁道話」から引用し、意訳してみます。

行持によりて依正身心あり、行持によりて四大五蘊あり。行持これ世人の愛処にあらざれども、諸人の実帰なるべし。過去現在未来の諸仏の行持によりて過去現在未来の諸仏は現成するなり。その行持の功徳、ときにかくれず。かるがゆゑに発心修行す。(正法眼蔵 行持)

修行生活すればこそ、私という存在も、私の住む世界も存在するのです。修行生活するためにこそ、私の精神も肉体も存在するのです。修行生活とは、私たちにとって、退屈かもしれない生活ですが、よく考えれば、この他に生き方のない、最後の落ち着きどころです。過去現在未来の自覚を願う人たちの修行生活により、過去現在未来の自覚を願う人たちの人生が完結します。その修行生活の働き方は、明らかでないように見えますが、必ず現れて来ます。そのために、私たちは気がついて修行生活を大切にしようと志を起こします。


もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端座するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。(弁道話)

もし人が、一時のことであっても、思いを超えたところで生かされている事実を受け止め、それを行いと言葉と思いで表現し、自分の執着を手放して坐禅し、その功徳を日常生活にめぐらし、自己が生きるしか無い自己の生命に落ち着くことができれば、この世界は、そのまま対立も比較もない世界となり、どこへ行ってもそこがやすらぎの場所となります。


私の一日は、朝の坐禅とお勤めから始まります。
朝の坐禅は、暁天坐禅と言いまして、修行道場では毎朝必ず行われており、この坐禅が一日で最初の修行です。
お勤めでは、毎朝決まったお経を読み、世界の平和と人々の安らかな生活を祈っています。
毎日続けてきた習慣ですので、目覚まし時計をかけなくても決まった時間に目が覚めるようになりました。

 ですが、体調の優れないときなどは、休む日もあります。私一人が寝ていたところで地球は回りますし、世界情勢が変わることはありませんが、私の人生として考えれば、この日一日朝は訪れませんし、この世界に平和が訪れることはありません。

そんなバカな、と言う人もいるでしょう。ですが、自分自身の問題として捉えれば、一日の始まりと世界の安寧を他人に任せてることになる、あるいは放棄してしまうことになります。
これは、宗教として見れば、ことさら大げさではないように思えます。

例えば、師匠から聞いた話ですが、ガンジス川ほとりにあるヒンドゥー教寺院では「自分たちの儀式があるから、世界中に朝がやってくるのだ」という話をしているそうです。
このヒンドゥー教寺院に限らず、世界中どの宗教でも、毎朝祈りや経典の読誦を欠かさず行っています。
キリスト教の修道院では、毎朝祈りが神に捧げられ、ミサが執り行われています。
以前アラブ首長国連邦のドバイに訪れた時は、毎朝ミナレットから礼拝を呼びかけるアザーンが放送されていたことを思い出します。

同じような世界観で、世界中の宗教は、世界を見ているのではないかと感じています。

考えてみれば、宗教者でなくても、誰でも夜眠りに入れば、朝目が覚めます。時計が示す時間に関わらず、目が覚めた時が朝の始まり、一日の始まりです。
目を覚さない限り一日は始まりません。同じように夜眠りにつかなければ、一日は終わりません。
誰かが代わりに起きて仕事に行ったり勉強してくれるわけがありません。誰かが代わりに寝てくれてる間に遊ぶこともできません。自分の住む世界の一日を始めるのも、締めくくるのも自分以外にはいません。

私たちが住むこの世界は、自分自身で創りあげています。自分自身がいるから自分の住む世界は成り立つのです。

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