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管長告諭の話⑩ 正法眼蔵 洗面

 「正法眼蔵 洗面」より抜粋 (原文)法華経に云く、「以油塗身、澡浴塵穢、著新浄衣、内外倶浄」。身心を澡浴して香油を塗り、塵穢をのぞくは第一の仏法なり。新浄の衣を著する、ひとつの浄法なり。身心を澡浴し、身に香油を塗するに、内外倶浄なるべし。内外倶浄なるとき、依報正報、清浄なり。(中略) (意訳)法華経に、「油を以て身に塗り、塵穢を澡浴し、新浄の衣を著せば、内外倶に浄らかなり」という一文があります。入浴して身も心を洗い、香油を塗り、汚れを落とすのは、自覚に生きる者たちに伝えられてきた、最も重要な生活の教えです。綺麗に洗濯された御袈裟を身につけるのも、特に「浄らか」な自覚の生活の教えです。身も心を洗い、身に香油を塗る時、自己の内側も外側も、同じく「浄らか」なります。内も外も同じく「浄らか」になる時、自己もこの世界も、「清浄」となります。(中略)   (原文)諸人の身心、その辺際、ときにしたごうてことなることあり。いわゆる一座のとき、三千界みな坐断せらるる。このとき、かくのごとくなりといへども、自他の測量にあらず、仏法の功徳なり。(中略) (意訳)人それぞれの身と心も、そのはたらきによって現れる世界にも、個人個人で決まった形も広さもありません。昔から言われているように、自覚に生きる者が坐禅すれば、その場所には、対立も比較もなく、広さや狭さもない限りのない世界が現れます。この時、限りのない世界が現れると言っても、その形や広がりようは、自己や他者の思い測りによるものではなく、自覚に生きてきた先人達の生活の教えの力によるものなのです。(中略)   (原文)計我をさきとすべからず、計我を実とすべからず。しかあればすなはち、かくのごとく澡浴し、浣洗するに、身量心量を究尽して清浄ならしむるなり。(中略) (意訳)自分という不変の実体があると思い、自分の思惑が常に正しいと考えてはいけませんし、今の自分のありようが永遠なものであると考えてはいけません。このことを忘れずに生活すれば、自覚に生きた先人たちの教え通りに入浴し、洗濯することで、思惑によって狭く囲まれた世界を超えて、その身と心が創り出す、 果てのない「清浄」な世界に生きることができるのです。(中略)   (原文)水なにとしてか本浄ならん、本不浄ならん。本...

管長告諭の話⑨ 正法眼蔵 三十七品菩提分法 「観身不浄」

 「観身不浄」といふは、いまの観身の一岱皮は尽十方界なり。これ真実体なるがゆゑに、活路に跳跳する「観身不浄」なり。不跳ならんは観不得ならん。(中略) すでに観得の現成あり、しるべし、跳跳得なり。いはゆる観得は、毎日の行履、掃地掃床なり。(中略) おほよそ夜半見明星の道理を、観身不浄といふなり。浄穢の比論にあらず。有身是不浄なり、現身便不浄なり。かくのごとくの参学は、魔作仏のときは魔を拈じて降魔し作仏す。仏作仏のときは仏を拈じて図仏し作仏す。人作仏のときは、人を拈じて調人し、作仏するなり。まさに拈処に通路ある道理を参究すべし。 (正法眼蔵 三十七品菩提分法)   意訳 「観身不浄」という言葉がありますが、この「観身」の身体とは、もがき悩み苦しむ、私たちのそのままの姿であり、自己の全てです。これは、これ以外に生きられない、かけがえのない「いのち」ですので、私たちは、この「いのち」を活き活きと生かして、この世界で歩みを止めることなく生きていくしかありません。これが「観身不浄」です。もがき悩み苦しむ自分を目の前にして、「私は駄目な人間だ」といじけてしまっては、この「いのち」を生きることはできないのです  このかけがえのない「いのち」は、あるがままの姿でここに現れています。この姿のまま、活き活きとした「いのち」を生きていることに気付く必要があります。この「いのち」の現れとは、毎日の修行生活です。掃除や洗濯といった日常生活です。 お釈迦様の「我と大地有情と同時に成道す」の教えを、「観身不浄」と言います。綺麗汚いといった対立や比較の問題ではありません。だから「不浄」です。浄不浄を超えた「不浄」です。この血の通った肉体が、「不浄」という真実を生きています。この現実に現れた身体が、「不浄」という真実を生きています。この教え通りの生き方とは何でしょうか。欲望に負け、進むべき道を誤った時には、自らの「いのち」を否定するのではなく、この身のまま過ちを認め、反省し、歩むべき道を歩み、正しい修行生活を送ることです。正しい道を歩んでいる時には、正しい道を進み、坐禅に照らされた修行生活を送ることです。思い悩む人間であれば、人間として心と行動に気を配り、正しい修行生活を送ることです。どのような人生であっても、活き活きと「いのち」を生きることができる道理を...