管長告諭の話⑨ 正法眼蔵 三十七品菩提分法 「観身不浄」

 「観身不浄」といふは、いまの観身の一岱皮は尽十方界なり。これ真実体なるがゆゑに、活路に跳跳する「観身不浄」なり。不跳ならんは観不得ならん。(中略)

すでに観得の現成あり、しるべし、跳跳得なり。いはゆる観得は、毎日の行履、掃地掃床なり。(中略)

おほよそ夜半見明星の道理を、観身不浄といふなり。浄穢の比論にあらず。有身是不浄なり、現身便不浄なり。かくのごとくの参学は、魔作仏のときは魔を拈じて降魔し作仏す。仏作仏のときは仏を拈じて図仏し作仏す。人作仏のときは、人を拈じて調人し、作仏するなり。まさに拈処に通路ある道理を参究すべし。

(正法眼蔵 三十七品菩提分法)

 

意訳

「観身不浄」という言葉がありますが、この「観身」の身体とは、もがき悩み苦しむ、私たちのそのままの姿であり、自己の全てです。これは、これ以外に生きられない、かけがえのない「いのち」ですので、私たちは、この「いのち」を活き活きと生かして、この世界で歩みを止めることなく生きていくしかありません。これが「観身不浄」です。もがき悩み苦しむ自分を目の前にして、「私は駄目な人間だ」といじけてしまっては、この「いのち」を生きることはできないのです

 このかけがえのない「いのち」は、あるがままの姿でここに現れています。この姿のまま、活き活きとした「いのち」を生きていることに気付く必要があります。この「いのち」の現れとは、毎日の修行生活です。掃除や洗濯といった日常生活です。

お釈迦様の「我と大地有情と同時に成道す」の教えを、「観身不浄」と言います。綺麗汚いといった対立や比較の問題ではありません。だから「不浄」です。浄不浄を超えた「不浄」です。この血の通った肉体が、「不浄」という真実を生きています。この現実に現れた身体が、「不浄」という真実を生きています。この教え通りの生き方とは何でしょうか。欲望に負け、進むべき道を誤った時には、自らの「いのち」を否定するのではなく、この身のまま過ちを認め、反省し、歩むべき道を歩み、正しい修行生活を送ることです。正しい道を歩んでいる時には、正しい道を進み、坐禅に照らされた修行生活を送ることです。思い悩む人間であれば、人間として心と行動に気を配り、正しい修行生活を送ることです。どのような人生であっても、活き活きと「いのち」を生きることができる道理を、よくよく考えるのです。

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