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管長告諭の話⑫ 自覚に生きる 自己という役をつとめる 

誰でも、生きられる人生は一回限りです。持てる生命は一つだけですし、生きられる世界は一つだけです。例外無く、それぞれがただ一つのいのちを生きています。 この世を舞台とすれば、誰でも自分だけの役を配されています。 舞台上には、たくさんの役があります。王様の役、お姫様の役、騎士の役、家臣の役、商人の役、農民の役、道化師の役、馬の役、鳥の役⋯。 私はお姫様の役じゃなければ嫌、俺は騎士じゃなければ出ないぞ、と駄々をこねても、別の役が与えられる訳ではありません。 それぞれの役者が、それぞれの役を演じきらなければ舞台は成り立ちません。もし、一人でも拗ねて嫌々演じてしまっては、その舞台は退屈なものとなります。役者一人ひとりが、精一杯役になりきって、自分だけの演技を全うすることで、舞台は輝きを放ちます。 また、自分が中心となるワンシーンだけが重要ではありません。長い地道な稽古を積まなければななりませんし、脇に回るシーンでは、他の演者を引き立てる演技も必要となります。 主人公。この言葉は、禅のエピソードから来ています。 中国唐の時代、瑞巌師彦という禅僧が、毎朝自分自身に呼びかけ、また、応答していました。 「おい、主人公、しっかりしろ。お前は自己のいのちを生きるだけだ。他人のじゃないぞ。」「はい、わかりました。」 主人とは、その家の住人のことです。招かれた客に対する言葉です。 この世の全ての人間が、他に変えられない唯一の役を配されています。 自分の代役はいません。他人の役を演じることもできません。 皆が主人公として、与えられた役を演じきることで、世界という舞台は、名作となります。 私は、関口興顯という役を配されています。お釈迦様でもありませんし、達磨様の役も演じられませんし、師匠になれるわけでもありません。 私は、坐禅の時は坐禅だけ、お経を読む時はお経だけ、掃除をする時は掃除だけ、入浴の時は入浴だけ、食事の時は食事だけの関口興顯という役をつとめるだけです。 そうすること以外に、自己を生きることはできません。 このいのちを、この生涯を、一作の劇として満足に仕上げるには、ワンシーンワンシーン全てを、精一杯演じ上げるしかありません。 ワンシーンとは、日常の一場面です。どれもおろそかにできないワンシーンです。 自己という役にも、 シーンにも、 上下はありません。もしかしたら、社会的に見て尊敬され...

管長告諭の話⑪ 自覚に生きる

  一杯のお茶が出されたならば、それを丁寧にいただく。而今なすべきことは、心を込めてつとめる。毎日がかけがえのない「縁」といのちの営みであることを自覚し、世界中の人々びとが誰一人取り残されることのないよう、ともに願い、祈り、まずは自分自身から正しい信仰生活を営んでまいりましょう。   仏教は、自覚の法門と呼ばれています。自身の生命の儚さと、日常の生活態度の危うさに気づかなければ、自覚とは言えません。縁に生かされた「いのち」を無駄にせず、「いのち」を、あらゆる存在にためにはたらかせ、自身の身体と心、そしてこの世界の脆さを乗りこえていかなければなりません。 誰もが例外無く、自己の生命を生きるしかありません。自己の世界の外で生きることはできません。自己が生きるほか無いこの生命と世界=「いのち」に落ち着き、自己の行いと思いで「いのち」をはたらかせ、「いのち」を創造していくことが、自覚の生き方です。生き方が定まることを覚りと言います。 自覚に生きる人々を仏と呼びます。自覚に生きた先人たちを仏祖と呼びます。自覚に生きた先人たちの足跡をたどり、その生き方に自らを投げ入れることを修行生活と言います。信仰の生活です。 「いのち」は常にはたらき続けます。生まれてから死ぬまでの間、自己の生きる世界は、姿を変え続けます。 自己の行いと思いは、世界に影響を与え続けます。 もし人が、生きる価値がないと嘆くのであれば、価値のない世界が果てしなく広がります。 もし人が、生きる喜びを知るのであれば、歓喜に溢れた世界が広がります。  人の心は脆いものです。ある時は自惚れ、ある時は卑屈になり、他人と比較し、自己の外に「いのち」のはたらきを委ねてしまいます。この時、「いのち」のはたらきを見失います。自己ではなく、他人の人生を生きることとなります。  常にはたらき続ける「いのち」の舞台は、日常生活です。ですから、自覚に生きた先人たちは、日常生活を何より大切にしました。 道元禅師は、洗面や歯磨き、入浴、用便、料理、食事作法に至るまで細かく作法を定め、細かい部分にまで気を配る修行生活を大切にしました。正しい日常生活にこそ、正しい信仰生活があることを示しました。 (典座教訓)一茎草を拈りて宝王刹を建て、一微塵に入りて大法輪を転ぜよ 料理をするに...

管長告諭の話⑩ 正法眼蔵 洗面

 「正法眼蔵 洗面」より抜粋 (原文)法華経に云く、「以油塗身、澡浴塵穢、著新浄衣、内外倶浄」。身心を澡浴して香油を塗り、塵穢をのぞくは第一の仏法なり。新浄の衣を著する、ひとつの浄法なり。身心を澡浴し、身に香油を塗するに、内外倶浄なるべし。内外倶浄なるとき、依報正報、清浄なり。(中略) (意訳)法華経に、「油を以て身に塗り、塵穢を澡浴し、新浄の衣を著せば、内外倶に浄らかなり」という一文があります。入浴して身も心を洗い、香油を塗り、汚れを落とすのは、自覚に生きる者たちに伝えられてきた、最も重要な生活の教えです。綺麗に洗濯された御袈裟を身につけるのも、特に「浄らか」な自覚の生活の教えです。身も心を洗い、身に香油を塗る時、自己の内側も外側も、同じく「浄らか」なります。内も外も同じく「浄らか」になる時、自己もこの世界も、「清浄」となります。(中略)   (原文)諸人の身心、その辺際、ときにしたごうてことなることあり。いわゆる一座のとき、三千界みな坐断せらるる。このとき、かくのごとくなりといへども、自他の測量にあらず、仏法の功徳なり。(中略) (意訳)人それぞれの身と心も、そのはたらきによって現れる世界にも、個人個人で決まった形も広さもありません。昔から言われているように、自覚に生きる者が坐禅すれば、その場所には、対立も比較もなく、広さや狭さもない限りのない世界が現れます。この時、限りのない世界が現れると言っても、その形や広がりようは、自己や他者の思い測りによるものではなく、自覚に生きてきた先人達の生活の教えの力によるものなのです。(中略)   (原文)計我をさきとすべからず、計我を実とすべからず。しかあればすなはち、かくのごとく澡浴し、浣洗するに、身量心量を究尽して清浄ならしむるなり。(中略) (意訳)自分という不変の実体があると思い、自分の思惑が常に正しいと考えてはいけませんし、今の自分のありようが永遠なものであると考えてはいけません。このことを忘れずに生活すれば、自覚に生きた先人たちの教え通りに入浴し、洗濯することで、思惑によって狭く囲まれた世界を超えて、その身と心が創り出す、 果てのない「清浄」な世界に生きることができるのです。(中略)   (原文)水なにとしてか本浄ならん、本不浄ならん。本...

管長告諭の話⑨ 正法眼蔵 三十七品菩提分法 「観身不浄」

 「観身不浄」といふは、いまの観身の一岱皮は尽十方界なり。これ真実体なるがゆゑに、活路に跳跳する「観身不浄」なり。不跳ならんは観不得ならん。(中略) すでに観得の現成あり、しるべし、跳跳得なり。いはゆる観得は、毎日の行履、掃地掃床なり。(中略) おほよそ夜半見明星の道理を、観身不浄といふなり。浄穢の比論にあらず。有身是不浄なり、現身便不浄なり。かくのごとくの参学は、魔作仏のときは魔を拈じて降魔し作仏す。仏作仏のときは仏を拈じて図仏し作仏す。人作仏のときは、人を拈じて調人し、作仏するなり。まさに拈処に通路ある道理を参究すべし。 (正法眼蔵 三十七品菩提分法)   意訳 「観身不浄」という言葉がありますが、この「観身」の身体とは、もがき悩み苦しむ、私たちのそのままの姿であり、自己の全てです。これは、これ以外に生きられない、かけがえのない「いのち」ですので、私たちは、この「いのち」を活き活きと生かして、この世界で歩みを止めることなく生きていくしかありません。これが「観身不浄」です。もがき悩み苦しむ自分を目の前にして、「私は駄目な人間だ」といじけてしまっては、この「いのち」を生きることはできないのです  このかけがえのない「いのち」は、あるがままの姿でここに現れています。この姿のまま、活き活きとした「いのち」を生きていることに気付く必要があります。この「いのち」の現れとは、毎日の修行生活です。掃除や洗濯といった日常生活です。 お釈迦様の「我と大地有情と同時に成道す」の教えを、「観身不浄」と言います。綺麗汚いといった対立や比較の問題ではありません。だから「不浄」です。浄不浄を超えた「不浄」です。この血の通った肉体が、「不浄」という真実を生きています。この現実に現れた身体が、「不浄」という真実を生きています。この教え通りの生き方とは何でしょうか。欲望に負け、進むべき道を誤った時には、自らの「いのち」を否定するのではなく、この身のまま過ちを認め、反省し、歩むべき道を歩み、正しい修行生活を送ることです。正しい道を歩んでいる時には、正しい道を進み、坐禅に照らされた修行生活を送ることです。思い悩む人間であれば、人間として心と行動に気を配り、正しい修行生活を送ることです。どのような人生であっても、活き活きと「いのち」を生きることができる道理を...

管長告諭の話⑧ 我と大地有情と同時に成道す

  「我と大地有情と同時に成道す」 これは、お釈迦様が暁の明星を見て覚りを得た時の言葉です。 道元禅師も瑩山禅師も著作に引用しており、短い一文ですが、非常に重要な意味を持っています。 「私とこの大地の全ての生命が、同時に道を明らかにした。」 「有情」とは、生命あるものという意味ですが、道元禅師特有の解釈方法で理解すれば、 有情があれば無情もあるという論理になりますので、ここには、生物無生物問わず全ての存在が含まれています。 また、同じく「同時」にも、時間的制限がありません。今始初めて、いつから、など ではなく、最初からそうだったということです。 道というのは真理、あらゆるものは人間の思いを超えて、縁によって成り立っていることです。  この世界は、 成り立ち自体が人間の思惑を超えたものです。 思惑とは、思いの枠とも言えます。人は、それぞれが人生で培ってきた経験から、物ごとに自分だけが理解する特徴と価値を付けて、自他を区別するための枠を心の中に作ります。 ですが、縁は、そうした枠を超えたところで働きます。 縁によってあらゆる物の姿、形、色、大きさ、匂いなどの特徴が作られます。特徴の積み重ねで、私たちが私と認識している自分や、他の存在ができます。 特徴の組み合わせの種類は無限です。やり直しもききません。コピ-もできません。人の思い通りにはいきません。ですから、全ての存在は、唯一の物です。 唯一ということは、絶対ということです。 絶対ということは、比較ができないということです。 対立のしようがないことです。 誰もが、あらゆる存在が、対立や比較を超えた絶対のいのち(仏のいのち)を生きています。   「我と大地有情と同時に成道す」 「私を含めたこの天地いっぱいに満ちている全ての存在は、最初から、かけがえのない仏のいのちを生きていたのだ。」 というお釈迦様の気付きです。 一方、気づいたということは、今まで気づいていなかったことに気付いたということです。 ですから、お釈迦様は同時に、 「私以外は、みんな最初から知っていたのだ。私だけが、気付いなかったのだ。」 と気付いたのです。 「人に生きづらさを感じさせ、悩ませ苦しませる自他の対立は、自分だけが抱えていたものだった。最初から苦しむ理由はなかったのだ。」とも言えます。 これは、これまでの人生に対す...

管長告諭の話⑦ 道元禅師の修行生活と世界(2)

曹洞宗は、お釈迦様と、そのみ教えを日本に伝えられた道元禅師、瑩山禅師を一仏両祖と仰ぎ、歴代のお祖師さまが脈々と伝えらてきた坐禅を中心とした正しい信仰にもとづく生き方を、日々の生活に実現していくことを目指します 。 その生き方とは、あらゆる存在が「縁」によって成り立っていることに心の底から気づき、そこで自ずと生まれる感謝の心を、行いと、言葉と、思いにして、すべての存在に回らし向けていくことに他なりません。(以上、告諭)   私たちの住む世界は、私たちの誕生とともに生まれ、死ととも消えていきます。 代わりに生まれてくれる人も、生きてくれる人も、死んでくれる人もいません。 ですから、限られた時間を無駄にせず生きるためには、自身が生きている間に、生きることを努める他ありません。 与えられたい、認められたい、愛されたい、許されたい、尊重されたい。そのような渇望に、人は苦しみます。 求めても満たされないこの世界に、人は生きる価値を見失います。 今の人生よりマシな人生があったはずだ。 どうして誰も自分を大切にしてくれないんだ。 誰か代わりに生きてくれないか。 あの人ばかりずるい そんな思いを抱いたことがある人は、多いのではないでしょうか。 しかし、どうあがいても誰かと交換できないのが生命です。人生です。 この世界は、自己以外誰も代わりに作ってくれませんので、ここ以外に生きるべき世界はありません。 この中には、私の全存在があります。美しい思い出も、辛い経験も、愛する人も、思い出したくもない人も、過去も現在も未来もあります。 捨てようにも捨てられないものですし、逆に私が捨てられることもありません。 私たちは、誰より何よりも、自分自身が愛おしく大切なものです。ですから、自らの世界そのものである全てのものを愛し大切にすることも、道理に則ったものです。 この世界と私は、決して分けることはできませんから、この世界のことを「いのち」とも言えるでしょう。 世界が「いのち」そのものですから、その中で生きる自身と他者の「いのち」に区別はありません。 また、他者も同じように自分だけの世界を持ち、世界とともに生きています。 であれば、誰もまた、それぞれの世界を「いのち」として生きていることになります。 それを害する権利は誰にもありません。 自らの「いのち」を害されることを望む者はいません。 私た...

管長告諭の話⑥ 道元禅師の修行生活と世界(1)

曹洞宗は、お釈迦様と、そのみ教えを日本に伝えられた道元禅師、瑩山禅師を一仏両祖と仰ぎ、歴代のお祖師さまが脈々と伝えらてきた坐禅を中心とした正しい信仰にもとづく生き方を、日々の生活に実現していくことを目指します 。 その生き方とは、あらゆる存在が「縁」によって成り立っていることに心の底から気づき、そこで自ずと生まれる感謝の心を、行いと、言葉と、思いにして、すべての存在に回らし向けていくことに他なりません。(以上、告諭) 以下、道元禅師の著書「正法眼蔵 行持」「弁道話」から引用し、意訳してみます。 行持によりて依正身心あり、行持によりて四大五蘊あり。行持これ世人の愛処にあらざれども、諸人の実帰なるべし。過去現在未来の諸仏の行持によりて過去現在未来の諸仏は現成するなり。その行持の功徳、ときにかくれず。かるがゆゑに発心修行す。(正法眼蔵 行持) 修行生活すればこそ、私という存在も、私の住む世界も存在するのです。修行生活するためにこそ、私の精神も肉体も存在するのです。修行生活とは、私たちにとって、退屈かもしれない生活ですが、よく考えれば、この他に生き方のない、最後の落ち着きどころです。過去現在未来の自覚を願う人たちの修行生活により、過去現在未来の自覚を願う人たちの人生が完結します。その修行生活の働き方は、明らかでないように見えますが、必ず現れて来ます。そのために、私たちは気がついて修行生活を大切にしようと志を起こします。 もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端座するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。 (弁道話) もし人が、一時のことであっても、思いを超えたところで生かされている事実を受け止め、それを行いと言葉と思いで表現し、自分の執着を手放して坐禅し、その功徳を日常生活にめぐらし、自己が生きるしか無い自己の生命に落ち着くことができれば、この世界は、そのまま対立も比較もない世界となり、どこへ行ってもそこがやすらぎの場所となります。 私の一日は、朝の坐禅とお勤めから始まります。 朝の坐禅は、暁天坐禅と言いまして、修行道場では毎朝必ず行われており、この坐禅が一日で最初の修行です。 お勤めでは、毎朝決まったお経を読み、世界の平和と人々の安らかな生活を祈っています。 毎日続けてきた習慣ですので、目覚まし時計をかけなくても決まった時間に...