管長告諭の話⑪ 自覚に生きる

 一杯のお茶が出されたならば、それを丁寧にいただく。而今なすべきことは、心を込めてつとめる。毎日がかけがえのない「縁」といのちの営みであることを自覚し、世界中の人々びとが誰一人取り残されることのないよう、ともに願い、祈り、まずは自分自身から正しい信仰生活を営んでまいりましょう。

 

仏教は、自覚の法門と呼ばれています。自身の生命の儚さと、日常の生活態度の危うさに気づかなければ、自覚とは言えません。縁に生かされた「いのち」を無駄にせず、「いのち」を、あらゆる存在にためにはたらかせ、自身の身体と心、そしてこの世界の脆さを乗りこえていかなければなりません。

誰もが例外無く、自己の生命を生きるしかありません。自己の世界の外で生きることはできません。自己が生きるほか無いこの生命と世界=「いのち」に落ち着き、自己の行いと思いで「いのち」をはたらかせ、「いのち」を創造していくことが、自覚の生き方です。生き方が定まることを覚りと言います。

自覚に生きる人々を仏と呼びます。自覚に生きた先人たちを仏祖と呼びます。自覚に生きた先人たちの足跡をたどり、その生き方に自らを投げ入れることを修行生活と言います。信仰の生活です。

「いのち」は常にはたらき続けます。生まれてから死ぬまでの間、自己の生きる世界は、姿を変え続けます。

自己の行いと思いは、世界に影響を与え続けます。

もし人が、生きる価値がないと嘆くのであれば、価値のない世界が果てしなく広がります。

もし人が、生きる喜びを知るのであれば、歓喜に溢れた世界が広がります。

 人の心は脆いものです。ある時は自惚れ、ある時は卑屈になり、他人と比較し、自己の外に「いのち」のはたらきを委ねてしまいます。この時、「いのち」のはたらきを見失います。自己ではなく、他人の人生を生きることとなります。

 常にはたらき続ける「いのち」の舞台は、日常生活です。ですから、自覚に生きた先人たちは、日常生活を何より大切にしました。

道元禅師は、洗面や歯磨き、入浴、用便、料理、食事作法に至るまで細かく作法を定め、細かい部分にまで気を配る修行生活を大切にしました。正しい日常生活にこそ、正しい信仰生活があることを示しました。

(典座教訓)一茎草を拈りて宝王刹を建て、一微塵に入りて大法輪を転ぜよ

料理をするにあたっては、一本の草でも仏様が現れる美しく飾られた場所とし、一微塵ほどの狭い台所でも、仏様のみ教えを料理をもって説きなさい。

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