告諭を味わう⑦ 道元禅師の修行生活と世界(2)

曹洞宗は、お釈迦様と、そのみ教えを日本に伝えられた道元禅師、瑩山禅師を一仏両祖と仰ぎ、歴代のお祖師さまが脈々と伝えらてきた坐禅を中心とした正しい信仰にもとづく生き方を、日々の生活に実現していくことを目指します

その生き方とは、あらゆる存在が「縁」によって成り立っていることに心の底から気づき、そこで自ずと生まれる感謝の心を、行いと、言葉と、思いにして、すべての存在に回らし向けていくことに他なりません。(以上、告諭)


 私たちの住む世界は、私たちの誕生とともに生まれ、死ととも消えていきます。

代わりに生まれてくれる人も、生きてくれる人も、死んでくれる人もいません。

ですから、限られた時間を無駄にせず生きるためには、自身が生きている間に、生きることを努める他ありません。

与えられたい、認められたい、愛されたい、許されたい、尊重されたい。そのような渇望に、人は苦しみます。
求めても満たされないこの世界に、人は生きる価値を見失います。

今の人生よりマシな人生があったはずだ。
どうして誰も自分を大切にしてくれないんだ。
誰か代わりに生きてくれないか。
あの人ばかりずるい
そんな思いを抱いたことがある人は、多いのではないでしょうか。
しかし、どうあがいても誰かと交換できないのが生命です。人生です。

この世界は、自身以外誰も代わりに作ってくれませんので、ここ以外に生きるべき世界はありません。
この中には、私の全存在があります。美しい思い出も、辛い経験も、愛する人も、思い出したくもない人も、過去も現在も未来もあります。
捨てようにも捨てられないものですし、逆に私が捨てられることもありません。

私たちは、誰より何よりも、自分自身が愛おしく大切なものです。ですから、自らの世界そのものである全てのものを愛し大切にすることも、道理に則ったものです。

この世界と私は、決して分けることはできませんから、この世界のことを「いのち」とも言えるでしょう。
世界が「いのち」そのものですから、その中で生きる自身と他者の「いのち」に区別はありません。
また、他者も同じように自分だけの世界を持ち、世界とともに生きています。
であれば、誰もまた、それぞれの世界を「いのち」として生きていることになります。
それを害する権利は誰にもありません。
自らの「いのち」を害されることを望む者はいません。

私たちは、多かれ少なかれ、自分自身の世界を大切にして生きていますから、他者の世界を大切にできる度量もあっていいはずです。

この世界において、他者に対して放たれる行いと言葉と思いは、同時に、世界そのものである自身に向けて放たれたものでもあります。
ですから、与えることは、与えられることです。
認めることは、認められることです。
愛することは、愛されることです。
許すことは、許されることです。
尊重することは、尊重されることです。

このことが理解できた時、承認も、愛も、許しも、尊重も、実は目の前に最初からあったのだと気付き、この世界を作り上げる「縁」への感謝が生まれて来るのです。
この世界には生きる価値があるのだ、という喜びが現れてくるのです。
世界を創り上げていく決意が生まれてくるのです。

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