告諭を味わう⑤ 「空」という世界観(2) 世界を創造するということ

 ここに樫の椅子があるとします。昔からこの家に受け継がれてきた椅子です。

子どもが座り、母が座り、祖母が座り、家族が代々座り受け継いできた椅子。ある人は、家族が紡いできた物語として椅子を見るでしょう。

ある人は、椅子の素材となった木を見るでしょう。一本の樫の木が種から芽吹き、苗木から大木となり、切り倒され、木材となり、部品となり、椅子へと姿を変える、遥かな旅路を椅子に見るでしょう。

ある人は、椅子を作った職人の姿を見るでしょう。木材を吟味し、採寸し、切断し、組み立て、塗料を塗り、家具店へと送り出す仕事として椅子を見るでしょう。

椅子には実体がありませんので、見る人によって姿を変えます。この世界も同じです。この世界に生きる人それぞれに合わせて、姿を変えます。意味を変えます。価値を変えます。歴史すら変えます。

人は、一人ひとりが自分だけの世界を創ります。世界を創るために必要な道具は、自分自身そのものです。

人生の中で積み上げてきた経験、記憶、考え方、性格、遺伝、身体、外界からの影響、様々な要素が複雑に関係しあって、人間の精神と肉体を作り、世界を認識し、その姿を創り上げます。

私たちは、外界の情報を目や耳などの感覚器官を通して脳にインプットします。誰でも人生経験を通じて学習された行い・言葉・思いのクセを持っています。そのクセをツールとして脳で情報を処理し、情報を総合して、世界の映像としてアウトプットします。この時、同じ情報であっても、個人によって感覚器官のはたらき方も、クセも違いますので、アウトプットされた景色は人それぞれです。世界は、個人個人で異なる姿を現出します。

この世界は、個人個人が自分専用に創り上げたものですから、この世界で生きるほかありません。誰でも自分自身の世界で生きるほかないのです。

ですが、必ずしも自分の世界が自分の生きたい世界というわけではありません。だからと言って、他者の世界の方が住みやすそうだと思っても、住み替えることはできません。ここに苦しみが生じます。

そこで大切なのは、この世界しか自分の住む世界はないという圧倒的事実に気付き、受け止めることです。そして、自分自身の行い・言葉・思いのクセに向き合い、克服し、コントロールし、より良い世界を創造していくことです。

さらに大切なのは、他者もまた、かけがえのない自分自身だけの世界を持って生きていることを忘れないことです。誰もが自分自身だけが住みやすい世界を創るのであっては、必ず世界同士の衝突が発生します。お互い譲らず、傷つけ合い、行き着くところが戦争です。

自分自身の世界では他者が生かされており、他者の世界では自分自身が生かされています。実は、皆同じ世界を見ています。同じ世界で生きています。生かされています。自分自身も他者もお互いの世界でお互いを生かしあっているのです。それぞれの世界は、別であって別ではないのです。同じであって、同じではないのです。

ここに、仏教の世界観があります。

私たちの住む世界は、自分自身で創造した世界です。この世界に存在する全てのものは、自分自身の行い・言葉・思い、すなわち、誕生してから今までの日常生活の積み重ねによって形作られたのですから、自分自身そのものです。自身も他者も鳥も魚も獣も虫も木も石ころまで自分自身です。

もちろん現実として、別々に分かれたものとなって目の前に現れますが、この世界観から見れば、分かれる以前の姿を現します。対立や比較が発生する以前の姿です。

人は、自他を対立させ比較することによって苦しみます。

しかし、この世界観では、苦しむ理由はどこにもないのです。

そこに気付いた時、安らぎを感じることになるでしょう。

救われたいと願い、どこかにある救いを探し求め、悩みもがいていた自分が、実は最初から救いの中にいたと気付くのです。

しかし、気付くだけでは不十分です。私たちの意思と身体が脆いように、この世界は、脆く崩れやすいものです。

この世界を見失わないためには、対立と比較を超えた日常生活を送る必要があります。自分自身を尊重し、他者を尊重し、生命を尊重し、生命以外も尊重する生活。万物を尊重する生活。一瞬一瞬を蔑ろにしない生活。

それが、仏教の修行生活です。

世界を絶え間なく創造し続ける生活です。





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